| Gallery・Ⅰ | 手塚国光 |

ポツ、ポツ、ポツ。


シトシトとも言えるような雨音が、そこかしこから聞こえてくる。
正確に言えばそこかしこからではなく、
どんよりと曇ったその上から落ちてくる水滴が地面等を弾いている音で、
これはこの雨が降っている全域で聞こえる音だ。
だから色々な所で、ではなく。
辺り一面を、この音が覆っている。

耳障りだ、と思い、手塚は眉間に皺を寄せた。
と同時に瞳を細める。
無駄だと思いつつも上空を見上げてしまうのは、人の無意識の行動なのかもしれない。
バサッと。
何の変哲のない黒い傘を広げ、手塚は校舎から1歩を踏み出した。

家へ帰ったらまず宿題をして、食事の後にお風呂に入ろう。
帰宅後の流れを頭で考えながら、
手塚はヌチャリとした粘土質の土を踏みしめ、前を向く。
足を軽く取られ、再度顔を顰める。
真新しい夏服を汚されるのも、嫌だった。

不意に、1つの傘が視界を横切った。
薄暗いこの空の奥に潜む、底抜けた青さ。
その青に見覚えのあった彼は特に意味もなく、
それの後を追うべく足の方向を変えた。
これもまた、彼にとっては無意識の行動であった。



見覚えのある傘は、昇降口を出てぐるりと回った校舎裏にある紫陽花の前にいた。
持ち主が腰を曲げ姿勢を低くしている為だろう、
傾いた傘はぽろりと綺麗に水を弾く。
傘によって顔は疎か上半身の殆どが隠されてしまった為、
何をしているのか、手塚には知る事が出来なかった。
分かる事はただ、紫陽花を前にしている、と言う事のみである。

空を連想させる青の端から、上から落ち流れてきた雨水がぽたりと落ちる。
全く動く気配のないそれに、声をかけようか一瞬躊躇する。
しかし彼が口を開くよりも先に、傘の持ち主が手塚を振り返った。


「…手塚、君?」


先輩、と手塚は呟く。
雨が降っているせいだろう。
自分の発した声はどこか籠もっているように、手塚には聞こえた。
彼女の目は些か驚いていた。
その目を見つめながら、手塚は素直に疑問を口にする。


「何をしているんですか?」

「手塚君こそ、こんな所で何を?」


しかし問いを問いで返されてしまった。


「俺は……」


手塚にしては珍しく口籠もっているその様子を見て、
は穏やかに、けれど楽しそうにひとつ笑う。
傾けていた体は自然と伸ばされていた。

そして手塚の返事をさして気にする風でもなく、
背筋を伸ばしたまま、彼女は再び紫陽花へ体ごと向けた。


「私は、紫陽花を見に来たんですよ」

「紫陽花?」

「えぇ、紫陽花」


こんな雨の日に紫陽花を見て、何が楽しいのだろうか、と不思議に思った。
それは馬鹿馬鹿しいというような見下した感情ではなく、
ただ素直に沸いた疑問である。


(この人は不思議な事ばかりをする)


見て確かめられるものではないだろうとは想像がついたが、
手塚は足を前に出しの隣に立った。
そのまま、彼女が見ている紫陽花に視線を向ける。
彼女が些か目を見開いたのが、手塚には感じられた。
なぜそこで驚くのかという事も手塚には分からず、
それも彼の中に沸いた疑問のひとつとなった。



「…先輩」

「なんでしょう?」

「何か面白い事でもあるんですか?」


手塚とが紫陽花の前に立ち、
特に変わり映えのしないそれを見始めてから、それなりの時間が経った。
相変わらず雨はシトシトと傘を突いている。
等間隔のようでそうではないその音を聞きながら、手塚はに問うた。
そうねぇ…と、はあいている左の人差し指を口元に当て、考える素振りを見せる。


「手塚君は、この紫陽花を見てどう思いますか?」

「この紫陽花を見て…ですか?」

「えぇ、この紫陽花を見て、です」


じっと、手塚は紫陽花を見る。
しかし先程から見ているものと何ら変わりはない。
見始めてから今まで、特に変化した様子もない。
どう思ったかなど、思いつかない。
なんと返事をして良いのか窮していると、苦笑しているが目に映った。


「この紫陽花を見て、私はとても綺麗だと思いました」


手が濡れるのを厭わずに、彼女は傘から左手を出した。
そのまま、紫陽花に軽く触れる。
ぴちょん、と。滴が跳ねた。


「紫陽花なんて、どこにでも咲いているものでしょう?」


手塚は軽く首を傾げ、問う。


「ですが、立ち止まって見たりする事、手塚君はありますか?」


またもにこりとは笑いかける。
子供に向けられるような、慈しむような笑み。
普段は気にしないそれも、今は子ども扱いされているような気がして、
どこか手塚の癪に障った。
しかし激しく不愉快だというようなものでもない。
いまいち分からない感情を持て余しながら、手塚はふいと視線だけそっぽを向いた。


「…ないです」


有るか無いかと問われれば、手塚の答えは否である。


「私もね、お花は大好きだけれど、
 道に咲いているお花をゆっくりと眺める機会はあまりなくて。
 今日ここへ足を向けたのも、実は単なる思いつきからなんです」


そう言いながら、口元に人差し指を当て、軽くウインクした。
先程の雰囲気から些か色を変え、
その仕草は何か面白いものを発見した時のような子どもを連想させた。
今度は手塚に体を向けたまま、は背をスッと伸ばし言葉を紡ぐ。


「お花が最も美しい時は、様々だと思うんですよ。私は、ですが」

「…美しい時?」


先程からの言った事を反復、もしくは疑問で返している。
そんな自分に舌打ちしたい気分になりながらも、手塚は悟られないようにの話を聞く。
彼女もそんな手塚の動向にはさして興味がないのか、それとも努めて気にしないのか。
とにかく、手塚の言った一言に頷きながら会話を進める。


「例えばですけれどね?
 向日葵は、強く照った太陽の下で咲き誇っているのが、とても美しいと思います。
 桜は、微風によって花びらが運ばれる時。
 スノードロップは…冷たい雪にも負けず、そこから顔を出して懸命に咲いている時。
 それぞれに美しい時は違う…紫陽花もまた、そうでしょう?
 ですから、見たいと思ったんです」


本当に思いつきですけれどね、と、は笑った。
それからもう幾度目になるかも分からないが、紫陽花に目を向けた。
空から落ちる冷たい雨に打たれ、しかし寧ろそれを誇らしげに纏い、
キラキラとしている。
その姿をとても嬉しそうに見て笑いかけているを、
正直手塚は、綺麗だと思った。

穏やかに彼女は笑う。
楽しそうに、面白そうに笑う。
慈しむような笑みを浮かべる事もあれば、
年より幼く見えてしまうような、無邪気な笑顔を浮かべる事もある。
手塚が不思議なのは、そう言った表情すべてが、
彼女が浮かべると無条件に綺麗だと思えてしまう事だ。

もっと見たい。
もっと近くで。
出来る事なら、隣で。
泣いた姿を、もう見たくない。

漠然と、意味もなく。
しかし確かに、手塚はそう思った。



「…手塚君?」


顔を覗き込まれ、名前を呼ばれた。
ぼーっとしていたのだろう、
が手塚を覗き込む顔は、どこか心配しているようであった。
いや、実際に心配していたのかもしれない。
普段からしっかりとしている後輩であるのだから。


「…なんでもないです」

「大分時間が経ってしまいましたね…ごめんなさいね、付き合わせてしまって」

「あっ、いえ…俺が勝手にいただけですから」


心底すまなさそうに謝るに対し、手塚は一瞬分からないといった表情を浮かべ、
次いで使える所すべてを使って否定した。
その姿が面白かったのだろうか。
少々俯き加減に、は笑った。
くすくすという籠もった声が、手塚の耳に届く。
どこか表示抜けした手塚は、視線を空へと向ける。
雨が止んだ事をに告げると、手塚と同様に空を仰いだ。

しかしそれは長くなく、はすぐに降ろしてしまった。
そして手塚ににこりと笑いかけながら、ゆっくりと言葉を音に乗せる。


「手塚君が美しい時は…テニスをしている時なのでしょうね」

「え?」

「格好良いですよ、テニスをしている時の手塚君」


先程の話の続きだという事に気づくまでに数秒、
更に言われた事を頭で理解するのに数十秒かかった。
自分の顔が熱くなるのが、手塚には分かった。


「やはり自分の好きな事に関しては、誰もが輝いてしまうものなのでしょうね」


軽く目を細め、ふわりと羽が舞うように、柔らかく微笑んだ。

直向きに咲き誇る花はどれも美しい。
それは存在するだけで美と表せるものだ。
人の生き様も同様だと、は言う。
各々で1番輝き美しいと思われる瞬間が、あるのだと。
人は何かを目指し頑張るその時が、何物にも変えがたい瞬間だと。

手塚の顔は相変わらず赤い。
しかし他人に悟られるような赤さではなく、
ただほんのりと、意識しないと分からないような赤さだ。
それよりも先に手塚本人が気になったのは、
が笑ったのを見て、自分の心がホッと温かくなった事。
の言葉を聞いて、鼓動が幾分速度を速めている事。
自分さえ知らない自分が、その言葉を素直に喜んでいるような気がした。

なぜかその事が気恥ずかしくなって、手塚は話を変えるべく言葉を発した。


「…帰りませんか?」

「えぇ、雨も止んだようですしね」


傘を閉じながらは言う。

いつの間にか、雨は止んでいた。
今は濃く色付いた樹木の葉や紫陽花からポタポタと滴を垂らしている。
分厚かった雲も今は薄らぎ、太陽が顔を出そうと、懸命に照っている。

手塚も彼女に倣って傘を閉じた。
そのままに視線を向けるが、彼女は柔らかく、暖かく、慈しむように、
紫陽花に笑いかけていた。


(…もっと、見てみたい)


己自身の欲求の出所は分からない。
それでも良いか、と手塚は思う。
いつもならトコトン自分の感情にさえ理由をつけて整理していたが、
この欲求は、今すぐに分からなくても良いと思った。

ただには笑っていて欲しいと思った、自分の気持ちを真実として。





「さぁ、帰ると致しましょうか」





出来る事なら、その笑顔を自分の隣で。










>>>後書き
『Aqueous Air』へお越し下さっている皆様へ、
10000Hitを迎えられた感謝の意を込めて、
管理人・蒼海鈴音より捧げます。どうか受け取って下さいませ。
お話は当サイトメインの手塚さん固定ヒロイン夢、 「2つの年の差物語」より、手塚さん中1、ヒロイン中3の6月頃の事です。 今よりちょっと饒舌で素直な彼を書くのは、書いている本人が1番楽しかったという…(笑)。 これでやっと手塚さんがヒロインに特別な感情を抱くきっかけのようなものが書けました。 とは言っても、なんの変哲のない、日常の一コマです。 それこそ、ヒロインの笑顔なんて、 部活のお手伝いに来てくれた日には何度も見ている事でしょう。 でもそんな当たり前の事が不意に特別になる。 彼にとって特別なきっかけなど必要ないわけです。 少なくとも、この固定ヒロイン夢での手塚さんはそうなわけでして。 面白味に欠けたお話ではありますが、どうか皆様が受け止めて下さりますように…。

10000Hitを迎えられた事に関しまして、心より感謝を申し上げます。
本当に、有難う御座いました。

蒼海鈴音様 (閉鎖なさいました)



Aqueous Air様の1万打を記念して描かれたフリー夢です。
サイト開設1万HIT、誠におめでとうございます!! 鈴音様の描かれるこのシリーズが大好きな私ですので、速攻でDLさせていただきました。 雨という日常1シーンでも、そこに流れている静かでどこか穏やかな時間にうっとりします。情景描写や言葉のフレーズがとっても美しいです。
これからも素敵なサイト様であられますように……♡
夢野菜月(2025.2.3/リニューアルにて再up)

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