88の鍵盤に想いを馳せながら
奏でられる旋律は美しくも切ないその心

弾き手を問わないそこは
弾かれるままに優しい音色を紡ぎ出す


 ほのかにひんやりとした風が頬をさらりと撫でる感覚に、秋の到来を感じて幾日が過ぎただろう。学内に植えられていた木々がだんだんと深い秋色に染まり出していた頃、今日も特別棟へ向かう一人の女生徒が見える。
 彼女の足取りは、部活に向かう他の生徒に比べると至ってゆっくりだ。向かった先は学内特別教室棟にある音楽室であり、一旦扉を閉めてしまえば放課後特有の喧騒がまったく聞こえてこなくなる場所でもある。
 少し厚みあるドアをゆっくり開けた彼女は、迷うことなく室内の明かりをつけた。そして、鍵かけのフックにキーホルダーリングを通す。まるで花の咲いたような笑顔を浮かべながら目的のピアノに近づいた彼女は、これから練習するため手際よくかつ丁寧に譜面台を立てた。

 普段から音楽室の窓際に置いてあるピアノは、調律が完璧に整えられている代物だが、残念ながら日ごろから利用している生徒は自分以外まったく存在しない。音の響きが良いぶん日々の練習にはうってつけであるとは思うが、他の生徒が利用しない理由がさっぱり分からない。一体なぜだろう。音楽を選択科目としている生徒も多いのに、何とも不思議な話だ。決して生徒の利用を制限しているわけでもない。
 ことの始まりはこうだ。現状を知った彼女が、誰も利用していないのなら自分が最大限使わせて貰えればと考えたのだ。遡ること半年ほど前。図々しくも教室責任者の榊先生へ音楽室の利用をお願いしたところ、拍子抜けするほどあっさり許可を得られた。以降ほぼ毎日の日課として彼女がここに通っている理由は、そこにある。

 最近では、ピアノの扱いもごく自然とできるようになってきていた。手慣れた様子で目の前の鍵盤蓋を開ければ、白と黒の鍵盤がいとも簡単に顔を出す。ピアノの椅子を引き出す所作さえいつのまにか板についたようだ。鏡面仕上げになっているピアノの表面には重厚感があり、いつ見ても一切の汚れがついていない。例えるならそれは、黒光りする宝石ともいえるだろう。当初は、ピアノへ触れることに一種の躊躇いが生じたものだったが、今では制服姿の自分がそちらに映しだされることすら当たり前として受け止められる。

 は鞄から一冊の楽譜をそっと取り出し譜面台に広げると、次はメトロノームに手を伸ばした。自分の練習する速度に設定し直せば、今度は両手を鍵盤の上にふわりと乗せる。そして一呼吸置いた次の瞬間、の両指は軽やかに白鍵の上を跳ね始めた。第一部・第二部・音階・半音階・アルペジオ・トリル・オクターブ音階。HANONにあるそれらを適当に弾き熟した彼女は、一定のテンポを刻み続けるメトロノームの針を元に戻すと、次は別の譜面を広げようとした。だがふと思い立つ。理由はともあれ、瞼をゆっくり閉じて心を静めたは、自分の頭のなかに思い描いた別の旋律を奏で始めた。


 やがてその優しい音色が、この空間に何とも言えない穏やかさを広げていく。







「目覚めの一曲としては、そう悪くもなかったぜ?」
「…………っ!?」


 ペダルから足を外した途端聞こえてきた声は、ピアノに手を添えていた彼女を非常に驚かせた。自分以外に人がいるなど思いも寄らなかったからだ。は、予想外の出来事から鍵盤に添えていた指を思わず滑らす。耐えがたいような不協和音を響かせたことに半ば慌てるよう椅子から立ち上がった彼女は、訳もなく謝罪する。
 しかし、そんなの姿さえ、死角にいた彼は意に介さない。まったく気にする素振りを見せない彼は何も言わず、寝転がっていたソファからゆっくりと体を起こすと、緩めていたネクタイに手を掛けながら出入口に向かった。それこそ何事もなかったかのように。あらぬ出来事のなかで例えようの無い驚きと極度の緊張が走ったは、立ち上がったまま何も言葉にすることが出来ずにピアノの前で立ち竦む。
 彼女は、突然目の前に現れた彼の纏う雰囲気に、ただただ圧倒されてしまったのだ。固まったままでいるの姿には目もくれずその場を通り過ぎた彼は、入口の扉に手を掛けふと立ち止まる。


「名前。」
「・・・・・・・・?」
「教えろ。お前の名前。」
「あの・・・・」
「早く言えよ。」


 彼は振り返ることもしなければさっさと教室を出て行くわけでもない。単に重い扉をほんのわずかに開けて、もう一度その続きを促した。ピアノの椅子から立ち上がったまま微動だにしないにかけられた声色は、彼女の想像よりも遥かに優しく、緊張したままでいるその心を少しばかり解きほぐしてくれた。


「っ、ごめんなさい。です。」


 やっとのことで口から出た言葉もどこか解け切らない緊張のせいで、彼に届いたかどうかが分からない。扉に手を添えたまま立ち止まっていた彼の背中から自分の手元に視線を落としたは、溜め込んでしまった息を小さく吐いた。それさえ聞こえたかどうかもわからない状況だったが、彼はすでにその手をゆるりと離したのだろう。微かに聞こえていた外の喧騒が、再び聞こえなくなってしまったようだ。




□□□


 あの日。私がなぜ緊張したかというと、そこにいたのがずっと憧れを抱いていた跡部くん本人だったから。
 今でも鮮明に覚えているのは、彼を初めて意識した日のことだ。たまたま通りかかった場所から小気味よいボールの音が聞こえてきたのだ。あまりにも爽快でリズミカルな音に釣られるまま行き着いたのが、テニスコートだった。ボールを打っているのが誰かと思えば跡部くんで、誰もいないそこで彼が一人壁打ちをしていたのだ。
 スタンドから見えた彼の姿は、当時、テニスのことなどほとんど知らなかった私でも息を吸うことすら忘れるほど魅力溢れるものだった。それは、生徒会長として全校生徒の前でなにかを話す跡部くんとは、全く違う印象を私に与えてくれた。

 ボールを追う強い眼差しは真剣で気迫に満ち溢れ、流れるような一連の所作は洗練されているかのように美しく、カゴ一杯に積まれていたテニスボールが跡部くんの手によってどんどんなくなっていく様子は、まるで今その瞬間まで知らなかった世界の扉を開けさせるようなドキドキ感を私に味わわせたのだ。
 ばらばらに散らばったテニスボールをラケット面でポンポンポンと叩きながら、器用にカゴへ投げ入れていく姿さえ目を奪われるほどに美しく、深く心を動かされた私は放心したようにその場所から暫く動けずにいた。それが淡い恋心の始まりだったのかもしれない。







 本来ならば、財閥御曹司という肩書を持つ彼は住む世界がまるで違う誰よりも遠い存在の人だ。そんな跡部くんはあれ以来、少し時間の空いたような放課後をここで過ごしている。なぜか一冊の本を片手にここにやってくるのだ。私たちは決して特別な言葉を交わす訳でもなく、まして跡部くんが私の奏でるピアノの音色を蔑むわけでもない。互いに干渉することもなく、ただ私はピアノを弾き跡部くんは本を読む。何とも言いようのない不思議で妙な関係が続いた。この釈然としない跡部くんの行動を何と表現すればいいのだろう。

 だが、この音楽室で一緒に過ごす時間は、だんだんと、そして確実に増えていった。

 あの日の跡部くんは一体なぜ音楽室にいたのだろう。跡部くんがここで過ごす理由さえも分からず、それをいつまでも問うことが出来ないままの私と何も話す気がないような跡部くん。彼の行動は単なる気まぐれなのだろう。いやきっとそうに違いない。でも私にとってのこの時間は、いつしか学校で過ごす唯一の楽しみとなっていた。あの日を境に遠い存在だったその人と過ごせるようになった、この静かな時間が。

 そんなことが定着していたある日のこと。
最終ページを読み終えた本をゆっくりと閉じた彼は、に視線を向けると、何気に口を開く。


「発表会。」
「え?」
「ピアノの発表会だ。そろそろある頃じゃねぇのか?」
「そうですね、あります。」
「いつだ?」
「再来週の日曜日です。」
「なら再来週の金曜日だな。」
「金・・曜日?再来週の?」
「ああそうだ。その日も忘れずここに来い。」
「・・・・・・?」


 私は、跡部くんの言っている意味が全くわからなかった。今日に限ってなぜそんなことを言い出したんだろう。しかも唐突に。必ずってどういうこと?納得できないまま言葉に窮していると、どこか呆れた声が聞こえてくる。


「オマエ、耳が聞こえねーのか。」
「き、聞こえてますけど・・でも・・・・」
「でもとは?」
「その日って・・跡部くんは部活があるんじゃ・・・・」


 聞きたいことは、そんな取り留めのないことじゃない。
 それなのに今頭で考えていることをそのまま口にすることが出来ずに押し黙る。


「そんなこと、オマエが心配することじゃねーだろ?」
「そう・・ですよね。」


 言われてみれば確かに跡部くんの言う通りだ。余計なことを言ってしまった後悔で言い淀んだ私は、自分自身の愚かさに落胆した。それが妙な居心地の悪さを引き起こし、居ても立っても居られずに彼の視線から逃れた私は目の前にある楽譜を即座に掴んだ。きっと、傍から見れば突拍子もない行動に見えてしまっただろう。
 そんな様子を知ってか知らずか、椅子からゆっくり立ち上がったような彼はいつもと同じように出入口へ向かった。跡部くんが出て行ったら私も今日は帰ろう。楽譜を鞄に仕舞いながら彼の背中を一瞥したとき、跡部くんは目の前にある扉に手をかけ立ち止った。いつもは何も言わずにそのまま出て行くのに何事だろうと様子を伺ってしまった私に振り返った彼は、ここに来て初めて笑顔を見せた。




「約束は守れよ。。」





 しかも自分の名を彼が口にしたのだ。刹那、心臓が跳ねた。まるでメトロノームの針が振り切れたのではないかと思うほどに。きちんと名前が伝わっていたんだとか、ずっと覚えていてくれたんだとか、嬉しいだとか、はっきりしない感情が一気に押し寄せ混乱したままの私は、後先考えずに跡部くんを呼び止めようとした。けれど、すでに閉じられていた扉のせいで、咄嗟に掛けてしまった私の声も彼には届かなかったようだ。

 静まり返った室内に一人取り残されたのもつかの間、私は緊張の糸がプツンと途切れたような勢いでピアノの椅子に座り込んでしまった。頭のなかは整理されない感情でぐちゃぐちゃだ。耳に残っている跡部くんの優しい声と夕日に煌めく笑顔が、穏やかだった私の心臓を再びドキドキさせる。




 ど、どうしよう……

あとがき
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