初めて彼女を見たのは、花園だった。
二度目に見たのは、廊下だった。
三度目に見たのは ―――
俗に言う、一目惚れというヤツだったのかもしれない。
いつものように、散策という名目のもとただ当てもなく歩いていた。
何処からともなく聞こえてきた歌。
聞いたこともない美しい声に、引かれるようにその音源を捜した。
一陣の風が吹き、一瞬閉じた目を開いたと同時に現れた光景。
白い花が咲き乱れる花園の中心で、一つ咲いた真紅の華。
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挿絵>
漆黒の髪と、白い肌と、真紅の衣の、目に痛いほどの対比。
声もなく立ちつくす自分に気づいた彼女は、こちらを向き、鮮やかに微笑んだ。
『・・・何をしている?』
『天に捧げる花を摘んでおります。』
それが始まりだった。
二度目は、会ったという程のものでもない、ただすれ違っただけだ。
自分と反対方向に進む足が辿り着く場所が何処かなどと、考えることもなかった。
そして三度目。
その時、三度目が訪れたことを、酷く恨んだ。
『何用だ、儂は忙しい。』
アンタが呼びつけたんだろうが。
心の中で毒づいて、天帝を御簾越しに見た。
寝室という暗い部屋の中では、多少の表情の動きなどわかるはずもない。
跪き頭を垂れるふりをしながら、気分が悪くなるほどの香を焚き染めた御簾の向こうを睨み付けた。
ああ、確かに忙しいらしい。
女の腰を揺さぶることに。
『・・・御用がないのでしたらこれで失礼を。』
早く出て行きたいという心に従い、簡潔に済ませ立ち上がった。
そのときふと垣間見た光景に、声を失くした。
こちらを、縋るような、助けを求めるような目で見る女。
獣の交尾のような体制で貫かれ、唇と腕を震わせながら必死に耐えるその女は、
『天に捧げる花を摘んでおります』
あの声が、あの夢みるように透った声が、堕ちた獣の嬌声を上げていた。
そして今、四度目の会合。
定期的に開かれる御前の宴。
いつもならこんな宴に自分が招かれることはないというのに。
気が進むわけもなく、だが自分に否と言える口は無い。
渋々出席すれば、予想に違わず嫌悪を含んだ、見下すような目で応対をされた。
どうでもいいと半分以上が思っているだろう帝の演説。
右から左へ聞き流す、などということはしない。
右耳に入る時点でシャットダウンする。
今、自分が主に使っている神経は眼だ。
異端の証であるこの眼で、天帝の傍らに座る、彼女を見ていた。
相変わらず、毒々しいほどの真紅を身に纏っている。
「彼女が気になりますか?」
突如掛けられた言葉に、そちらを向いた。
声の主は物静かな面の中にも鋭い空気を持つ、銀髪の男。
誰何する前にもう一度同じことを問われる。
「・・・だから何だ。」
「彼女に想いを掛けるのは止めた方がいい。彼女は天帝のモノだ。」
知っている、と吐き捨てるように言えば、その男はそうですかと応じる。
「第一想いを掛けているなど誰が言った。俺はあの女のことなど何も知らない。」
「では教えて差し上げましょう。」
断りを入れる暇も無く、その男は続けた。
「彼女は『雨乞い乙女』ですよ。」
聞き慣れない言葉だが、その意味は知っていた。
雨乞い乙女 ――― 甘露の雨を降らせる為に天に乞う乙女。
聞こえはいい。だがその実、乙女でも何でもない、用は天帝専用の遊女のようなものだ。
巷ではこう言われている。
『白い雨が乙女の口に降り注げば天に雨が降り、乙女から雨が流れれば下界に雨が降る。』
なんともまぁ下世話な話だ。その卑猥さには俗人でさえ閉口するだろう。
表情を盛大に歪めた自分に、彼は一つ溜息をついて、その場を立った。
最後に彼女の名だけ言い残して。
「・・・ ・・・か。」
その名の主が、今御前で舞っている。
妖艶な舞いに見惚れる者、下卑た笑みを浮かべる者。
好ましいとは言えない視線が彼女に群がるのが疎ましくて仕方ない。
だったら見なければいい。どうせここには無用だ。
退出しようと立ち上がったそのとき、
「焔。」
最も嫌う声に、呼び止められた。
間を置いて振り返る。
その先では、天帝が舞い終わった の腰を抱き寄せながら、自分を嘲る目で見ていた。
「・・・何か。」
「このような宴の席だ。お前も何か舞ってみろ。」
心の中で舌打ちした。
クソジジイと罵倒してみる。
どうせ、自分が舞えないことをわかって言っているのだ。
それはそうだ、何も学ばせてもらってないのだから。
わかっていながらそう言って、自分に恥をかかせようとでもしているのだろう。
「どうした焔?」
ここで、アンタなんかの為に舞えるか、と言えたらどれだけ清々するだろう。
仕方なく断りを入れようと跪いたとき、天帝の傍らで始終を見ていた彼女が口を開いた。
「天帝。」
「おお、なんだ ?」
自分に向けるのとは180度違う、猫撫で声。
別にあんな声を向けられたところで、吐き気がするだけで嬉しくもないが。
「私は見とうございませぬ。」
「何?」
彼女の言葉に、自分も疑問符を浮かべた。
だがそれは、次の言葉で掻き消された。
「あの方の顔など見とうございませぬ、早くお下げ下さいませ。」
「 ―――― っ」
キン、と一瞬耳鳴りがした。
不浄の者の顔など、と侮蔑されている気がした。
いや、気だけではなく実際そうなのだろう。
天帝が頷き、手をひらひらと振る。
それに頭を下げ、その場を退出した。
盛り上がる者たちはこちらのやりとりに気づいていない。
それがせめてもの救いだった。
壁に寄りかかり、花曇りの空を見上げる。
幼い頃は空が在ることさえ知らなかった。
あの牢獄が世界の全てで、向けられる嘲笑もそれが当たり前なのだと思っていた。
仮に世界が広がっていたとしても、そこで吐かれる言葉は皆軽蔑や侮辱で構成されていると思っていた。
初めて世界というものを知って、どれほど経つだろう。
聞いたことも無い美しい言葉や笑顔や景色を知ってから。
けれど、未だに自分は牢獄から抜け出せないでいる。
あの頃と何も変わっていない、いや、更に孤独感が増した。
何も知らなければ、惨めな思いをせずに済んだのに。
空も、花も、ヒトも、こんな感情も、何も知らなければ ―――
「流石に応えましたか?」
先程聞いたばかりの声が聞こえた。
振り向けば、やはりあの男だった。
「別に、あんなことは慣れている。」
「そうは見えませんが。」
睨みつけるが、男は気にした様子もない。
「一つ言っておきますが、あれは貴方のためですよ。」
「何?」
「彼女がああ言って貴方を追い出さなければ、貴方はまた彼らの前で恥をかかされたでしょう。」
それは明白なことだ。
あの場で断りを入れていたら、また何だかんだと言われ嘲笑が向けられていただろう。
会場を出て、少し安堵したのは事実だ。
自分の為・・・それが嘘か真かは分からない。
今までのことを思えば、嘘に決まっているのだ。
期待などするだけ無駄と、諦めればいい。
けれど、信じたいと思った。
得体の知らぬ男の言葉を、彼女の言動を、信じたいと。
そしてまた、日々が過ぎていった。
あれから彼女には一度も会っていない。
会おうとすれば会えたのかもしれないが、会って何を言われるか、それが恐かった。
けれど脳裏には、初めて見たあの笑顔が離れずにいた。
そのせいだろうか、久しぶりに外を歩いていると、気づいたときにはあの花園へ来ていた。
足を止めて、周りを見回してみる。
けれどそこには影一つ無く、無数の白い花が風に揺れているだけだった。
安心したのか落胆したのか微妙な心境で、その場に座り込む。
小鳥の声と草花のそよぐ音が聞こえるだけの静かな空間。
全身の力を抜けば、背は地に触れ、瞳は青い空と同化する。
ゆるゆると下がる瞼に抵抗はせず、そのまま眼は何も映さなくなった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
覚醒しきらない意識の片隅に入り込む、柔らかな感触を捕らえた。
花で撫でられるような、羽根が滑り落ちるような。
頬や額にかかった髪をそっと掻きあげられる。
うっすらと目を開ければ、彼女が、初めて見たときと同じ笑顔を浮かべて、そこにいた。
「・・・・・・」
「はい。」
夢かと思い彼女の名を口にすれば、心地よい声が返ってくる。
頬を撫でる手を取って、強く引き寄せた。
覆い被さるように倒れこんできた身体を抱きしめる。
一瞬強張った身体は、だが次には身を任せるように肩口に顔を埋めてきた。
首を回して彼女と瞳を合わせる。
そして、同じように、唇も重ね合わせた ――――
右腕に彼女の頭を乗せて寝転がる時間。
感じたことの無い穏やかな空気と温もり。
「・・・おかしいと思うか?」
「何が、ですか?」
聞き返してきた に、答えていいのか一瞬迷った。
『会った』と言える回数などほとんどないのに、こんなに惹かれていること。
禁忌である自分が他人を求めること。
普通に考えれば、どちらもオカシイのだろう。
だが は小さく笑って、
「それなら、私もおかしいことになります。会って間もない貴方とこうしていることが、とても幸せですもの。」
胸に頬を摺り寄せてくる彼女の額に口づければ、くすぐったげに肩をすくめた。
『幸せ』なんて感じたことのない自分に、彼女の言う『幸せ』は解らない。
けれどその言葉を与えられたことは、酷く嬉しいものだった。
「一つ聞いていいか?」
「はい。」
ずっと気になっていたこと。彼女の口からその答えを聞ければ、例え嘘でも信じるだろう。
「・・・本当のお前は、誰だ?」
天帝の腕に絡め取られて身悶える女か。禁忌の子と嘲笑う女か。
それとも、こうして自分の腕の中で柔らかな微笑みを浮かべる女か。
問うた自分に、 は瞳の中に哀の色を見せた。
「本当の私など、雨乞いとなった日に何処かに捨てて参りました。
・・・けれど今、心に何の曇りも無く笑みを浮かべていられるのが私なのだとしたら、」
そこで一度目を閉じた。一呼吸置いて次に開いた瞳からは、哀は消え、真実を語る光が灯っていた。
「本当の私は、貴方の目の前にいる私です。」
――― ああ、と感嘆する。
感じたことの無い感情。幸せと思う心。
それが初めて、感じられた気がした。
自分が今感じているものなど、この世の全てにとってはほんの些細なこと。
けれどそれは自分にとって、何にも勝る至上の歓び。
微笑む彼女を強く抱きしめる。
『幸せ』を言葉で表すことは自分には難しいことだ。
けれど「幸せとは何だ。」と聞かれたなら、迷わず答えるだろう。
今の自分にとっての幸せは、彼女だと。
離さない。決して手放すものか。
彼女が自分を求めてくれる限り、自分が彼女を求める限り、何があろうと決して ――――
企画キリ番1000番をゲットして下さった夢野菜月様に捧げます。
考えていたネタとリク内容が面白いほど一致しまして、もともと前後編にするつもりでしたので長くなっちゃいました。
後編も早めに書き上げますね(苦笑)