揺れるココロ

| Short Novel | 跡部景吾 |


 ゆらりと。

  揺れ動いてしまうのは、自分のココロ。


 そして、想い人の心が、欲しくなる。

   そう。いま、すぐにでも。

   





 いつのまにか季節は巡り、今年も残すところわずか一ヶ月未満となっていた。
そのなかでも唯一心残りががあるとすれば。


それは――







「こんな時期に開けっ放しの窓際にいたら風邪ひくぜ。」
 静寂を保っていたカフェテリアに、少し低めの凛とした声が響く。自分に向けられた言葉かも分からない声に思考が遮断された私は、思わず窓際に寄せていた身体をくるりと後ろに向けた。と同時に軽い衝撃を受けた。まさか振り向いたこめかみに何かを当てられるとは思ってもみなかったのだから、一瞬身体が強張ってしまったのも当たり前だろう。
「ふはっ、そんなに驚くことかよ。」
「っな、」
「悪ィ。」
 僅かに怯んだ私が溜息を堪えながら視線を上げれば、くすりと笑った彼の瞳が下りてくる。悪びれた様子などこれっぽっちも感じられない彼の言動には、悪意がないと分かる分、何とも言えない感情が巡ってくる。
「別にいいけど――」
「けどの続きが聞きたいもんだ。正直そんなに驚くとは思っていなかったんでな。」
「予想外のできごとには誰だって驚くでしょう。それが質の悪い悪戯かと思えばなおさら。」
「これが質の悪い悪戯に見えるのか?そこまでひねた性格はしてねぇよ。」
「見えるっていうのは冗談だけれど、これまでたくさんの仕事を振ってくれたのは歴とした事実だから。」
 それを聞いた彼はピクリと片眉を上げた。まるで論外だと言わんばかりに呆れた溜息を吐く。そこに思わず小さな笑いが洩れたが、私も事実を述べただけで言葉に嫌味を込めたつもりはこれっぽっちもなかった。と、そんな言い訳は自ら棚に上げ、ちらりと彼の様子を窺う。多少なりとも気を悪くさせたのなら謝りたくて。ところが、切り替えの早さは超一級品のような彼は何も引き摺ることなく、手にしていた飲み物をスッと私の目の前に差し出してきた。
「なあに?これをまさかわたしに?」
「ああ、そのまさかだ。」
 窓を背にしていた彼と飲み物をまじまじと見つめた私は、素直に受け取るべきか迷い言葉を詰まらせた。そういえば生徒会で遅くまで仕事をしていたときも、よく仕事机に飲み物を持ってきては休憩しろと口煩く言われていたっけ。会長の方が忙しいはずなのに役員に気配りができるところも、学園きっての人物だと言われるゆえんの一つだ。そもそも多くの仕事量を私に押し付けてきたのは紛れもない彼、跡部くんだったのだけど。
「相変わらず気前がいいね。」
「単に気が変わっただけだ。」
 私に真っすぐな視線を向けた彼は他にも何か言いたげに見えたけれど、それ以上何も言わない。これまでも言いたいことがあるなら躊躇わず言葉にしてきた。それが目の前にいるこの跡部くんだ。結局、ここに来て気が変わったのだろう。
「有り難く受け取りな。」
 なかなか受け取らないこちらを見兼ねたのか、彼はそういって口角を上げた。つまり他の選択肢はないということだ。跡部くんからすればこういうこと自体なんのことはないのだろう。こちらとしてはつい遠慮がちになるが、そうそう生まれ持った性分が変わることはない。
 差し出されている飲み物を前に「じゃあ遠慮なく。」と素直に頷けばそれでいい、とでも言うような素振りで跡部くんが笑った。手渡された飲み物を包み込めば、じんわりとした温かさが広がっていくからこれまた心地いい。まるで心のなかまで温かくなるようだ。反射的に「ありがとう。」と言葉にすれば跡部くんはさらに笑みを深くする。
 それにしても、よくよくみればいかにも甘そうな飲み物だと気づく。まさか自販機のボタンでも押し間違えた?ついあれこれ心のなかで巡る不要な思考には一旦終止符を打ち、いい加減自己完結しようと思った矢先のことだった。外の景色をじっと眺めていた私に跡部くんはまだ帰らないのかとさらに話しかけてくる。
「もう少しだけね。」
「ほぉ。今日はよっぽど暇だったんだな。」
「そんなわけないでしょ。ただこうしてオレンジ色に染まっていく空が綺麗でついね。」
「夕焼けか?」
「そう、夕焼け。今日は特に綺麗に見える。」
 私が過ごしたここでの学校生活。それを思い返せば、今日まであっという間の月日が経ったが、それなりに充実していたと思う。生徒会に引っ張り出されて何だかんだとやってきたのだから。お気に入りだったこの場所から見る景色も今日限り、明日からは見られないと考えれば、後ろ髪を引かれる思いがしてあと少し、あと少し、と、気が付けばこんな時間になってしまっていたのだ。
「言われてみれば確かにそうだな。綺麗だ。」
 そう言った彼を目の端で捉えると、少し傾けた顔を窓外に向けた跡部くんは口元を緩めゆったり窓側に向き直った。思いのほかじっと遠くを見つめるような跡部くんは、いったい何を考えているんだろう。
 こんなありふれた情景より、もっと素晴らしい景色を今までに何度もその目で見てきたでしょうに。そのまま何も言わずにいる跡部くんを横目に、もらった飲み物を頬にそっと当てれば、跡部くんがまた笑う。
「その笑いは馬鹿にしてる。そんなもん頬に当てても何の足しにもならないだろって顔。」
「馬鹿になんざしてねぇが、相変わらず冷え性とやらは健在のようだな。寒がりの癖にこうしてみる夕焼けには勝てないときた。」
「自分でも馬鹿だと思うわ。」
「いいんじゃねーの?そういうところは嫌いじゃない。」
「珍しく認めてくれるんだ。」
「俺はいつも認めてたぜ。丁寧な仕事ぶりに助けられたことは何度もあるしな。」
「初めて聞く台詞。」
「今初めて口にしたからな。」
「夕焼けにかまけて何言ってるんだか。ほら寒くなってきたから窓閉めてそろそろお開きにしなきゃ。」
「ったく情けねーな。この寒さにもう降参かよ。もう少し見ていようぜ。せっかくの機会だ。」
「そこまで言われちゃ仕方ない。生徒会だったよしみでもう暫くだけ付き合ってあげる。」
「ふっ。」
 お互い遠くの景色を眺めていても、隣で彼の笑った気配を感じられると妙な心地よさを覚える。そんな日常も今日でお終い。
「こんなことなら私も跡部くんみたいにがっつり運動して鍛えておけば良かったな。冷え性の原因も様々あると聞いたけれど、その一つに筋肉量も関係しているらしいからね。」
「おいおい自慢できねぇだろうがそれは。もっと運動しろ。運動。それとも俺が鍛えてやろうか。」
「っ、なにそれ本気?今までにテニスでも教えてって言ったら教えてくれたの?」
 意外だった跡部くんの言葉につい口走ってしまった。その拍子に視線を横に向けると少し驚いたような跡部くんがいたが、彼はすぐさま肯定してくる。
 どうして?――――どうして否定してくれないの?


「っんもう、冗談で言ったのに真面目に答えないでよね。」
 誰もが見惚れるくらいの綺麗な笑顔を向けくるから一瞬心が揺れた。それを悟られないよう笑って誤魔化す。私は今、いつも通りの姿でいられただろうか。こんな日に……こんなときに限って跡部くんは真面目に返してくる。茶化して否定してくれればよかったのに。
 後先考えず言葉にしてしまったことを悔やんでも今更どうしようもないと分かっている。この期に及んで後悔しても口にしてしまった事実は取り消せないのだから。後の祭りだとは分かっているのに悔やまずにはいられなかった。いまさら何をどうしたって、全てがもう遅い。




「くくっ、冗談で終わらせるつもりかよ。今からでも遅くねぇだろ。」
 このとき、俺がチラリと窺ったの横顔から見た笑顔は、いつもと少し違った。まるで別のことに気が向いているかのような、目の前に広がる景色を眺めているようで、実際それを捉えていないような。どこかコイツらしくねぇ。何を考えている?ほんの少し感じた違和感。妙ともいえる予感にどうしようもない胸騒ぎが抑えられなかった。


「単なる気まぐれでしょ?」

「そんなんじゃねーよ。」






その言葉を聞いた瞬間、私のココロが揺れる。
最初は、単なるクラスメイトだったのに。
時折、跡部くんの一挙手一投足に翻弄されそうになる。

でも否定された言葉の裏に隠された跡部くんの本心が、今の私には何も掴めない。



好い加減気づけよ。

ただの気まぐれだけで、俺がそんなことを言うはずがねぇだろ。
俺に対するコイツの気持ちが知りたくて、幾度となく鎌をかけても、
その度スルリと交わしやがる。自分だけのものにしたいの心が、今の俺には見えねぇ。







□□□

「冗談でも嬉しいよ。もっと早く口にしていれば叶ったのかも知れないね。」
 心ここにあらず、とはよく言ったものだ。夕焼けをじっと見ながら口にされた言葉は、どうにも覇気がないよう聞こえて違和感が残る。

「――――今までありがとう。」
 唐突だったの声は、当然俺に向けられている言葉だが、なぜか腑に落ちない。景色に視線が向けられているからか?まるで今日限りでいなくなるような言葉にさえ聞こえてくる。何に対する”ありがとう”なのか、なぜ今そんなことを言うのか判断しかねた俺は、それがどういう意味なのかという疑問をそのまま口にするしかなかった。
「どうもこうも、私が生徒会の仕事をやり遂げられたのも会長が跡部くんだったから。お陰で私にとって今日まで充実した学校生活だったなって意味よ。」
「当然だ。だがそれは、卒業式当日まで取っておいて欲しい言葉だな。」
「……そう、ね。」
 いつになく曖昧な反応だ。は何を考えている?
 俺はもともと、ここを素通りするはずだった。たまたま通りかかったカフェテリアの入口から見掛けたの姿を珍しく思い、つい声を掛けたに過ぎなかった。今日のところは取り留めもない話題に終始するつもりでいたにもかかわらず、ここにきてし始めた胸騒ぎが今はそうはさせないでいる。一瞬、転校という言葉さえ脳裏を掠めた。
 それが杞憂ならいいが嫌な予感ほど当たるものだ。いつもいつも白黒はっきりさせたいとは思ってねぇが、ここに至った以上、埋まらないピースを持て余したままでいるのは性に合わねぇ。例え望んだ結果が得られなかったとしても何も得られないよりはいいだろう。








、一つ聞く。」
「なに?」
「まさかとは思ったんだが―――」
「うん?」
「―――おまえ、近いうちにここを去っちまうつもりか?転校するという意味だ。」
 何とも歯切れの悪い聞き方だと思った。だがは、決して驚いた様子を見せなかった。しばらくして少し俯いた彼女は、真剣な眼差しを向けて俺に向き直った。そして、黙ったままコクリと頷いて見せた。やはり、予感は外れてくれなかったようだ。無言でそう告げられたとき、俺はいったいどんな顔をしていたんだろうな。自分の洞察力を今日ほど呪いたくなった日はなかった。事実は理解できてもすぐには現実を受け入れられない感情が巡る。

「勘の良さは折り紙付きね。」
 ずっと黙っていたが、小さな息を洩らした。
「そんなことより、いつ発っちまうんだ?」
「――予定は明朝。」
 猶予がないと悟るには十分な一言だ。もうこれまでのように悠長なことをしている暇はない。

「この偶然がなければ、なんの挨拶もナシで行っちまうつもりだったってワケか。」
「そうじゃないの。単に言う機会がなかっただけで。この件だけをわざわざ言ったところで何も変わらない。それがいったい何になるのかってそう考えていたら堂々巡りのようになって結局言えないまま今日を迎えてしまった――ただそれだけのことだった。」
 それは真実だろう。思い返してもお互い仕事以外のプライベート話など、深い話をしたことはない。引っ越しの話なんざ俺にわざわざ言う義理もない。を否定するつもりなど最初からなかったが、「言ったところで何も変わらない。」と言う言葉だけはどうしても捨て置けなかった。だから言ったんだ。自分だけの物差しで勝手に決めつけるなと。
 しかし、言っている意味がわからないときたもんで、はぐらかしたのかと何とも歯がゆい想いを断ち切れずにコイツの言葉尻を捕えちまった。

「わからねぇほどテメェは馬鹿だったのか、あーん?」

 思わず語気が荒くなったせいでビクリと肩を震わせたコイツにもちろん悪気はない。はもっと物分かりが良いはずだろ。余計なことは口走りたくなかったが、このときだけはどうにも堪えきれず、引っ越しを明日に控えたを気遣う余裕が持てなかった。は眉尻を下げると、居た堪れないのか視線を逸らすよう目を伏せちまった。

そんな悲しそうな顔するなよ。決してお前が悪い訳じゃねぇ。
 これは間違いなく俺の問題なんだよ。







 跡部くんの表情から急に笑顔が失われたのは、きっと私の浅はかな考えが原因なのだろう。恐らくそうだ。ただその何がいけなかったのか。唯一それが知りたかったけれど、跡部くんはそこには一切触れず、ただ「校門で待ってろ。」 と言う。
 そして何を急いでいるのか、彼は足早に交友棟から出て行こうとする。いったい何故だろう。その理由も教えられず。だんだん遠ざかっていく後姿を呼び止めようと咄嗟に声をかけても、跡部くんは振り返ることさえしてくれなかった。







 ゆらゆらと。

    ココロが揺れ動く。









一体、いつからだろう。
跡部くんのことを単なる同級生として見られなくなったのは。

一年生から生徒会の仕事に就いていた彼は、とても忙しい毎日を過ごしていた。
それ以外にも、二百名を超える部員を抱えるテニス部長としての務めもあった。

きっと、彼があの地位を築き上げたのは、誰もが知らないところで他人の何倍もの努力をしてきたから。
一見、何も努力をしていないように見える彼が、実はその努力を怠らない人だと見知ったとき。

私は跡部くんに惹かれ始めたのかも知れない。





柄にも無く、俺は焦燥感に駆られていた。
が転校してしまう、という事実に。

俺は、が少なからず気に入っていた。
他の女とは違って何ら特別視することなく、この俺に対し普通に接してくるアイツのことが。
の存在は、いつしか自分の中の大半を占めちまうほど大きくなっていた。

――― 好きだの愛してるだの。
気のない女から散々言われてきた言葉。なぜそんな類の一言が、俺はアイツに言えなかったのか。

ただ単に、の口から直接言わせたかっただけなのか?
例えそうだったとしても、もう猶予は残されていないとわかったんだ。


だったら、俺は―――







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