鞄を胸に抱いた私の足は、纏まらない考えのせいでどんどん重くなってしまう。
進まない一歩を何とか動かすよう意識しながら、ゆっくりと歩いて私は校舎を出る。どこか晴れない気持ちのまま校門に向けてとぼとぼ歩いていくと、その場所にはすでに跡部くんが待っていた。
壁に凭れ茜雲を見上げていた跡部くんがこちらに気付くと、彼はスッと壁から離れ私の前に歩み寄る。

「待たせてごめんなさい。」
「構わねぇ。この後、何か予定はあるか?」
「特には何も……」
「だったら少しの間この俺に付き合え。」
「え?」
「心配しなくても帰りはきちんと送ってやる。」
そう言って歩き出した跡部くんは、私の答えを聞く前に歩き出してしまう。きっと私の言葉など求めていないのだろう。
彼の表情には笑顔さえ浮かんでいなかったものの、先ほどの雰囲気は消失したのか随分と和らいでいるようだった。そこに少しばかりほっとする自分がいる。
それにしてもこんな時間からどこに行くつもりなのだろう。これほどゆっくり歩いている跡部くんの姿を、私は校内で一度も見たことがない。合わせてくれているのだとしたら申し訳ないと思いながら、跡部くんの少し後ろを何も言わずに歩く。
この状況をなかなか整理できない私の頭では、一体どのくらい歩いたのかさえわからなかったが「ここだ。」という跡部くんの声でハッとする。到着したと思しき施設を見上げる私の隣で彼は言った。跡部財閥が経営しているクラブ施設の一つだと。
「そんな緊張している顔は初めて見たぜ。安心しろ、に餞別をくれてやるだけだ。」
口角をゆるりと上げながら言い放った跡部くんは、目の前にある自動ドアを堂々と通った。彼は私をロビーのソファに座らせると、着替えてくるからそのまま待ってろと言い残し背を向ける。
跡部くんのはそのままロッカールームに足を運ぶようだ。それにしてもわざわざここにきた跡部くんの真意がまったく掴めない。そんな彼の背中を見送りながら改めて辺りを見渡せば、広いロビーや高い天井が目に映る。そこにある全ての調度品は海外のものだろうか。あまり目にしたことがなかった。頭がクリアにならないまま次から次へと出入りする人々を眺めていると、さっそく着替えを済ませた跡部くんが戻ってきた。
「待たせたな。」
立ち上がった私についてくるよう指示した跡部くんは、スタスタと歩き出す。跡部くんが身に着けているものは、この時期すでに引退したはずのテニス部のものだ。
一体、なぜ――――?
この姿と施設前で跡部くんが私に向けた言葉とが結びつかない。疑問を抱いたままの私は、黙って彼に従い歩くことしかできなかった。フロントを横切り洗練された豪華な廊下を歩いて屋外に出れば、聞きなれたボールの音が聞こえてくる。跡部くんが向かったのは、テニスコートだった。
でもそこを素通りした跡部くんは、どんどん歩いて敷地の奥へ向かう。何面もあったコートから少し離れた場所にあるコートはたった一面しかなく、他の利用者がいない分、辺りはしいんと静まり返っていた。
その入り口にある金網に手を添えた跡部くんは、目の前にある扉をゆっくり開けながら悠然とその中へ入って行く。「、お前も入れ」 そう私に命じて。
コート内にはカートへ乗せられたカゴがいくつか置いてあり、そこにはボールがすでに山積みとなって用意されていた。
「以前、俺に言ったよな。」
「何……を…………?」
背中越しに呼び掛けた私の声に振り返った跡部くんが、こちらをじっと見据えるからどうしていいのか分からず、思わずその場に立ち竦んでしまった。
「たったの一度だったが、俺のテニスをしている姿が好きだ、とな。」
はぐらかすことは絶対に許さない、といった真剣な眼差しに私は怯みかけた。言われてみればそう言ったような記憶が微かにある。けれど今更なぜ?真っすぐにこちらを見据える跡部くんは、一体何をもってそんなことを言い出すのだろう。あれは確か、全国大会に行けるという知らせが届いたころのことだったはず。
『わたしも跡部くんのテニスをしている姿が好きよ。だからこちらのことは何も心配しないでいいから。』
跡部くんが言っているのは、恐らくこの言葉のことだろう。あのとき、生徒会の仕事に対するこちらの負担を跡部くんが気に掛けてくれたからそう伝えたものだ。
「の優しさから出た言葉、だったかも知れねーが。」
私が当時のことを思い出した、と、跡部くんは察したんだろう。その鋭い感性で。でも感情を読ませない彼の口振りには、すぐさま言葉が返せない。あれは私の優しさなんかじゃない。跡部くんへの好意をその言葉に少し混ぜ込んだ。決して想いを悟られないようごく自然に振舞って。
ただそれ以上に、部活へ集中して取り組みたいという跡部くんの気持ちに何とか応えたいと思っていたことは事実。一個人の好意よりなにより、氷帝の一生徒として出来る限りのことを、と。正直なところ後者の気持ちで跡部くんの負担を少しでも減らしてあげられたらという思いのほうが、遥かに強かっただろう。それを単なる優しさだと言われたら、結果的にそうなり得るものかも知れない。
「……あの言葉は嘘じゃない。」
「特別優遇してやると言った部活見学に一度たりとも来なかった癖してよく言うぜ。」
「それは…………ただ単に一生懸命練習しているところを邪魔したくなかっただけ。」
本当はね、その言葉が嬉しくてすぐにでも行きたかったんだ。でも行けなかった。自分の気持ちがこれ以上大きくなることを恐れて。もしそうなったあとで傷つくことになるなら、初めから行かなければいい。そう判断したことを、今でも間違っているとは思っていない。
「そうかよ、だがそれも怪しいもんだ。」
「私はどう思われても構わない。ただそれを確かめるためにわざわざこうしてここまできたの?」
「そうじゃねぇ、言っただろ。餞別代りに俺様の華麗な姿を見せてやると。大人しくそのベンチに座ってよく見ておきな。」
氷帝キングと呼ばれるに相応しい笑顔を見せつけた跡部くんは、ジャージの裾を翻すと一旦サービスラインまで下がった。
そして、手にしたテニスボールを数回コートにバウンドさせたのち、それをふわりと空高くに投げ上げる。
その瞬間、私のココロがまた揺れる。ゆらり、と。
誰にも心のうちを悟られないようずっと秘めてきたこの想いを。
いつまでもキラキラと輝く綺麗な形でおいて置きたかった思い出を。
貴方はここにきてかき乱そうとする。
心のアルバムに載せて、いつ日か私だけがそっと開けることのできる記憶の引き出しに、
大切な宝物としてそれらすべてを仕舞っておくつもりだったのに。
それなのに貴方は、冷静でいようとする私のココロを酷く乱そうとする。
なぜ?一端、器の外に溢れ出した想いは、もう止められない。
まだわからねぇのか?
この俺は、お前のことが他の誰よりも気に入ってるんだぜ?
お前はこの三年間、いったい俺のどこを見ていたんだ。
テニスをする俺の姿だけが好きなのかよ?
それだけじゃこの俺は、到底満足出来ねぇところまで来てんだよ。
もうこれ以上、待ってなんかやらねぇ。
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きっと、今までもこういった真剣な眼差しでテニスと向き合ってきたんだろう。跡部くんの視線は、どこまでもボールを追いかけている。何かを確かめるようコートにボールを弾ませるとき。それをゆっくり投げ上げてトスをするとき。重力に従って落ちてきたボールを思いっきりラケットに当てるとき。ラケットに当たったボールが誰もいないコートに飛んでいくとき。そして落ちたボールがコートにコロコロと転がっていくその最後の瞬間まで、彼は決してボールから視線を離さない。
ボールは何度も同じ高さに投げ上げられる。ふわりと力を抜いて上げられたトスと、ボールを打つ瞬間に力を込められたような跡部くんの仕草。間髪を入れずに何度も角度をつけて外側に強く打ったかと思えば、稀に内側へゆるめのボールを打つ。絶妙なプレイスタイルを見せつけてくる跡部くんに、ハッと息を呑む。緩急のあるそれらすべては計算しつくされたように見えるけれど、実際のところはどうなのかわからない。
ボールを掴もうとする左手。ラケットを振り上げる右腕。それを振り下ろすときに聞こえてくる息遣い。明かりに反射してキラリと光る髪。彼が一歩動くたびに揺れるジャージ。跡部くんのそれらすべてにココロが震える。
もし今ここで相手コートに誰か他の選手がいたのなら、一体どんな試合が展開されることだろう。ただただ、間近で見せつけられる一つ一つの仕草が、途切れることのない流れるような彼の動作が、まるで一枚の絵画から抜け出したよう美しく見え、この寒空の下でいる私に暫しその寒さを忘れさせた。
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茜色に染まっていた西空も、いつしか夜の帳が下りている。カゴ一杯に積み上げられていたボールはどんどんと減っていて、最後のカートにあったそれももう数えるほどしか残っていなかった。
「。」
突然呼ばれた私は思わずぎくりとする。跡部くんは何を思ったのか、私目掛けて金属缶を一つ放り投げてきた。弧を描いたコントロールは、さすがといったところだろうか。ベンチに座らされていた私の膝上にストン、と、それはまるで最初からここにあったよう綺麗におさまった。
「…………っ!?…………」
「それを相手コートに置けよ。お前の好きな場所でいい。」
彼は事も無げに「ラストボールをそれに命中させてやるよ」と、言い切った。突とした彼からの申し出に驚きを隠せなかった私は、自分の手にしているものをまじまじと見つめてから、どうしたものかと跡部くんに視線を向けてしまった。どうやら困惑していることは伝わったようだ。彼はふと表情を緩めた。でも跡部くんは、一歩も譲らない気でいるらしい。カフェテリアで一本のペットボトルを私の手のひらに乗せてくれたときと、同じだ。視線でその先を促す。
私は、仕方なくベンチから立ち上がった。何も考えられない頭のまま動かなくなりそうな足を精一杯動かす。反対側のコートに向けてゆっくりと歩く。一歩、また、一歩、と意識して踏み出す。そして、跡部くんの真正面に位置するベースラインに、立った。ちらりと跡部くんを見遣った私は、そこに引いてある一本のライン上に金属缶をそっと立てた。
「そこで良いんだな?」
少しだけ穏やかな、でも凛とした声がコート一面に響いた。姿勢を正した私に、跡部くんは確認を取ったのだ。その視線を受けて小さく頷いた私にベンチへ戻るよう指示した彼は、続けた。
「ラスト一球、これをお前が置いたあの場所に命中させたら俺の質問に答えると約束しろ。俺に対する、お前の気持ちだ。」
跡部くんの視線は、先ほどからずっと私が立った場所に向けられたままだ。立てられたその小さく細い缶に真っすぐ向けられている。その恐ろしく厳粛した横顔に、私は何も言えず黙り込む。
跡部くんに対する私の気持ち。
誰にも悟られないようにしていたこの気持ちを。
彼に寄せているその好意を。
今なら、素直に言えるだろうか。
言っても許されるだろうか。
このラスト一球に俺の全てを賭けてやる。
、お前が言わないなら言わせてやるまでだ。
例え、どちらに転んでも構わねぇ。
この先いつまでも、俺の姿がの頭から離れられねぇよう、お前の目に焼き付けてやるよ。
ただそれだけだ。
一点に視線を向けて集中している跡部くんの姿は、まるですべての感覚を研ぎ澄ましているようにも感じられた。彼の耳には、呟くようにしか言えなかった私の小さな声ですら、きちんと届いたんだろう。
跡部くんは最後のボールへ視線を向けた。
そして、一度ぎゅっと握りしめられたようなラストボールは、そのあと漆黒の空にふわりと投げ上げられた。重力に逆らわず、一定の速度でボールは下りてくる。
ラケットを振り上げた跡部くんは、次の瞬間、爽快な打球音を響かせた。
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それはきっと、一分にも満たない時間のなかで起きた出来事だっただろう。
にとっちゃ、わけも分からないままの状態で自分の気持ちを言え、などとこの俺に約束させられちまったようなもんだ。餞別など、体のいい言葉に過ぎねぇと俺自身は納得しているが、コイツは正直どう思っているのか。その身勝手さを心のどこかで悪いと思いつつも、自分の想いを今更止めることが出来なかったんだ。
呆然と立ち竦むに構うことなく、俺はその距離を縮めた。
思わず腕を掴み引っ張り込んじまったそこでは一体なにを考えただろう。
胸元でコイツのくぐもった声がしたことにも顧みず俺は――――――――――
「聞かせろよ、お前の気持ちを。俺はずっと好きだったんだ、。お前のことが。他の誰よりも。」
何てズルイ人なんだろう。
こんな形で、あんな姿を見せつけて。そのうえ断ることすらできない状況を作り出してまで私に約束をさせておきながら、自らの気持ちを潔く先に打ち明けてしまうなんて。
ずっとずっと好きだったこの気持ちを。その想いを。
この先ずっと綺麗な思い出にしようと思っていたのに。出来なくなってしまった。
――――――あなたのせいで
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